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ヒトの惑星      

参謀

「膝小僧を見せてごらん。」

彼はそう言った。

「膝小僧…膝ですか?」

「そう、膝小僧。」

  昼下がりの喫茶店。夕立の降りだしそうな、空をしている。喫茶店の店主は、カウンターの角で煙草を小さく吸っている。

「今、ここでですか?」私は戸惑いを隠せない。

「いいから。すぐ見せて。」

私は少し長めの短パンをまくり、膝を彼に見せた。

 彼は真剣な表情で膝を見ていた。舐めるように。這うように。彼の私を眺める様子は、私の顔を赤らめた。

しばらくしてから、彼は言った。

「やっぱりそうか。」

「何がですか?」私は恐る恐る尋ねた。

「君を見ていて、前から不思議に思っていたことがあるんだ。それはだね…。」

 彼は分かりやすく躊躇った。俯く彼の眼差しは、テーブルに円を描いているように思えた。

「一体、なん、です…か。」

「君はネアンデルタール人だ。」

「ネアンデルタール…人?」

私は耳を疑った。

「分かりやすく、説明してくれますか?」

彼はコーヒーを口に含み、そのゆっくりと話し始めた。

「君はネアンデルタール人。私たちの人類とは違う生物だ。君は2万年前に滅んだとされる生物なんだ。人類とはほとんど変わらない姿をしているから、誰も気づかなかったんだ。」

「何を言っているんですか?」

「学者の私が言っているんだ。」

彼は足を組み直し、髭を触っている。

「この間は医者って言ってましたよね。」

「まあ、どっちでも同じことさ。」

 私は彼のその胡散臭い部分が、気になっていたが、嫌いではなかった。

「私の見立てでは、君はネアンデルタール人。後頭部は後ろに突き出て、顎は少し前に出ている。そして、顔の彫りが深く鼻も大きい。さらに、全身もそうだ。ガッシリとした体形。脚も手も短く、胴が長い。」

「それは悪口ですか?」私は信じていないだけに、わざと口を尖らせて言った。

「私は本気で言っているんだよ。君は旧人だ。私が今から言うネアンデルタール人の特徴をほとんどもっているはずだ。」

「じゃあ、言ってみてくださいよ。」

私はニヤついて尋ねた。

「まず、君は滑舌が悪い。それは上気道が短いからだ。ネアンデルタール人は分節言語の発声が苦手だと言われている。」

「ほかには?」

「君の成長は他の人類に比べて速かったんだじゃないか?」

「他の人類って、そんな言い方しなくても。」

彼の顔は真面目だった。私はその表情を見てすぐに口を開いた。

「はい、たしかに、速かったです。でも結局みんなが成長すると私は全体でも背は低い方になってしまいました。」

「そうだ。ネアンデルタール人の成長スピードは速いが、背は低い。」

「そんなのいっぱいいる、じゃないですか。」

 私は上手く言葉が出なかった。この時、私の血液は溶かした鉄のように熱くなった。鉄は私の肉体を重くした。これまで見てきた自分の顔。それは人間ではなかったのか。私は彼が賢く、彼を信頼しているだけに、信頼すればするほど、体内の鉄は重く感じられた。

「そこで、私は君の膝を見せてもらったんだ。通常、私たち現生人類の膝蓋骨は丸く、下が少しすぼまっているような形をしている。しかし、君の膝蓋骨は大きくて、形は丸よりも四角に近い。私のこれまでも研究では、ネアンデルタール人の膝蓋骨は大きくて四角い。それは短足のネアンデルタール人が重い胴体を支えるために、太くなった筋肉と筋肉を結ぶ膝蓋骨は大きくなったからなんだ。」

 私は黙って聞いていたが、彼の説明に納得できなかった。彼は幅の広い黒いスラックスをまくり、膝を私に見せた。

「さあ触ってごらん。自分の膝を私の膝、絶対に違うから。」

 私は彼の膝を手の平でさすった。彼の肌は艶があるが、骨ばった様子が分かった。それは自分の知っている膝とは全く異なるものだった。大きな膝のなかにある膝蓋骨。それに比べて、自分の膝蓋骨は膝そのものであり、関節という印象を持たせなかった。

「2万年前…。」

 彼は突然話し始めた。

「ネアンデルタール人は絶滅した。3万年前とも4万年前とも言われている。しかし、私に言わせてみれば、どれも間違い。私の唱える学説は、ネアンデルタール人はまだ生きている。この地球上に。」

「で、私はそのネアンデルタール人の生き残りなんですか。」

 私は自分の膝を撫でながら尋ねた。

「ネアンデルタール人はクロマニヨン人との争いによって、滅んだという説もあるし、気候などの環境の変化に耐えきれずに滅んだとう説もある。だが、その滅んだ理由についても、私は違う立場だ。私はネアンデルタール人はクロマニヨン人との生活に溶け込み、自然と消滅したと思われるようになってしまった。」

「溶け込むって、ネアンデルタール人とクロマニヨン人同士で新しい子を産んだってことですか?」

「そういうことだ。クロマニヨン人の社会と、ネアンデルタール人の社会は上手く調和したんんだ。ネアンデルタール人の脳はクロマニヨン人の脳とほとんど変わらないから問題はなかった。それにしても、違う生物とが調和した社会を作るなんて、今の社会では考えられないね。民族や宗教だけじゃなく、主義主張が違うだけで殺し合うんだから。」

「じゃあ、私はネアンデルタール人というより、そのハーフのハーフのハーフのという感じになって、ネアンデルタール人の血が薄まるんじゃないですか?」

 彼は髭を触りながら、首を傾げた。なかなか、話を再開しないので、私は喫茶店を見回した。振り向くと、喫茶店の店主は興味深々に私たちの話を聞いている。思わず目が合うと、店主は私の大きな鼻を見たのか、苦笑いをした。

「そうなんだよ。ネアンデルタール人のDNAが10パーセントを超える人間でも、通常の人間と同じなんだ。だが、君の膝蓋骨はネアンデルタール人の骨そのもの。骨格や顔つきは丸っきりネアンデルタール人だ。恐らくネアンデルタール人のDNAは30パーセント以上はあるだろうな。」

「そうなんですか。何て言えばいいのかな。」

私は激しく困惑した。私は人間ではないのか。私は初めて、人間を生物の一種という考えを持った。私はネアンデルタール人だとしたら、彼はクロマニヨン人なのか。それは私と彼の膝が語っている。

 

 

 私は少数派だ。ネアンデルタール人は一体この地球上に何人いるのか。もしかしたら、ネアンデルタール人は私だけなのか。世間に私が人間でないと知れたら、私はどうなるのか。孤独による寂しさを通り越した空白感が私を襲った。

「私はネアンデルタール人ですとしましょう。認めます。私はこれからどうしたらいいでしょうか。」

彼はここでまたコーヒーを口に含んだ。私もつられてアイスティーを飲んだ。窓ガラスに目をやると、激しく水滴が打ち付けている。夕立がいつのまにか打ち付けていた。

「雨降ってますよ。」私は慌てて、彼に伝えた。

「知ってるよ。今気づいたの?」

彼は小さく笑っている

「あなたは人間ではない、と言われて平然に夕立の到来に気付いている方が人間離れしていますよ。」

「それもそうだね。」彼は外を見ながら言った。

「君はこれから…、君が良ければ、私の研究の手伝いをしてほしい。決して君が社会から仲間外れにされることはない。極秘に研究を進める。君のネアンデルタール人のDNAが50パーセント以上あるかもしれない。だとしたら、これはすごいことなんだ。君はまさしくネアンデルタール人なんだ。違う種類の生物が、人間社会に順応して生きている。日本語をしゃべっている。パソコンを使って、メールも送る。そんな生物ネアンデルタール人しかいないんだ。だから、私はここでみすみす君と師弟のような関係では留まれないんだ。」

「でも、もし研究が完成したら、私がネアンデルタール人だと世間の知るところとなるんですよね?」

 私はついそれを大きな声で言ってしまった。振り向くと、まだ店主は私たちの話を聴いている。もうこの時点で、私がネアンデルタール人かもしれないということは、私と彼だけの秘密では済まされなくなった。

「大丈夫、あの人はしゃべらない。」

「そうなんですか。」

「このことの重大さは、学会の人にも分かるはずだ。ネアンデルタール人と聞いて一般人は君を差別するかもしれないが、知識人は違う。君のこれからの人生に配慮をするはずだ。もちろん、私からも言おう。あと、君はそう気負うことはない。ネアンデルタール人について調べる必要はないし、余計なことを考えなくてもいい。これまで、君はちゃんと生きてきたんだから。」

「分かりました。とりあえずは安心です。」

「では、来月から私の研究室に来てもらおう。まずは簡単なテストみたいなものから始めるつもりだ。雨が止むまで待ってから、店を出ようか。」

 それから私たちは、最近観たつまらない映画の話をしてから、店を後にした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 彼の研究室は302号室だった。ドアをノックすると、

「どうぞ」と低い声が返ってきた。

「こんにちは」私は小さく身をかがめながら部屋に入った。

「まあ、そこに座って。」

 私はそう言われ、質素な机に座らされた。高校の学習室という教室とは別にある部屋の机を思い出した。

「そこに1枚の紙がある。今は裏返しにしてるから、見えないだろうけど、表にはテストの問題が書かれている。そのテストは、君が本当にネアンデルタール人かどうか、これまでの経験から君の知能を計ろうというものだ。私の名前からYamazaki Judge Testと勝手に命名した。」

「はあ。」私は情けない声で相槌を打った。

「あまり考えずに答えてくれよ。記憶をたどるのは良いが、テストの奥にある真意を探ってはいけない。君はネアンデルタール人だが、次元の高い知能ではクロマニヨン人とさほど変わらない。君の直感的な知能を知りたいんだ。」

 彼は腕を組んで、偉そうに言った。白衣姿の彼を観るのは初めてった。白衣を着るとこれまでの胡散臭さが、嘘のように無くなっていた。

 

 

「じゃあ、始めるよ。制限時間は10分。始め。」

突然の開始に私は少し驚き、たじろいだ。少し遅れて、紙を表にした。

紙にはこうあった。

「1、机の上においてあるものがあります。何を手に取りますか?

 

A、ソフトクリーム B、アイスコーヒー、C、オレンジ D、ホットコーヒー

 

2、この中でどの食べ物好きですか?

 

A、ラーメン B、鮭(焼き魚) C、生姜焼き D、ショートケーキ

 

…………」

 

 テストにはこのような問題が30問あった。何も考えずに答えた。何も意図のようなものは感じなかった。どちらかと言うと、研究室の壁の白さがくすんでいたことに、一抹の不安を感じていた。

 テストはすぐ終わってしまったので、ぼんやりと考え事をしてしまう。

 かつては白亜の学府と呼ばれるこの研究棟も、歴史が経ってみれば、失われてしまうものがあるのだ。私も前はそう考えていた。

 時折、歴史は残酷だと言う人がいる。歴史は何かを奪ってしまう。戦争が起これば、文化財もこれまで蓄えた巨大な富も、市井の人々の健やかな営みも。戦争が起きなくても、人々の死に対する真剣な眼差しが損なわれる。ひたすら人間は老いを持て余すだだ。時間は人を幸せにしない。そう思っていた。

 だが今は違う。確かに時の流れはたくさんのものを奪う。しかし、私は残されたネアンデルタール人。歴史と科学の悪戯とやらのせいで、私は人間でないことになっている。私が貴重な存在だとしたら、私を生んだ歴史はただの簒奪者ではない。何か意味を求めてしまいたくなる。私は何をすればいいのか…。

「はい、10分経ったね。終了。後は私の方で見ておくから。」

 彼は机上の紙をざっと見てから、その紙を彼の書籍が積み上げられて汚い研究机の上に置いた。

「これから、何をするんでしょう。」

「今日はレントゲンとMRIをとってもらう。それから運動能力を測定しようかな。あと、DNAも忘れずに採取させてもらう。簡単なものだから心配しないで。」

「分かりました。」

「終わったら、何かごちそうするよ。」

「ありがとうございます。」

私は何もありがたみを感じずに、そう返事をした。

 

 一通りこの工程を終えて、私は大学の食堂で彼と食事をしていた。彼はいつものコーヒー口に含み、ゴクリと喉を通した。そして言った。

「私の見立てでは、やっぱり君はネアンデルタール人のDNAの割合が大きい。数字によっては、君はネアンデルタール人だ。」

「北極に住まわせるようなことは出来ないですからね。」

「大丈夫だよ。」

彼は笑ってそう言った。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 夏の終わりというものは、暑さではないものが尾を引いている。それは残暑や夏らしさという言葉でしか、日本語では表現できない。季節の変わり目とは必ず尾を引いて、突然に断ち切られる。夏は特にそれがはっきりしている。人間を破壊するような、夏の惨さ(むごさ)は秋風によって颯爽と消え去るのだ。秋が寂しいのは、夏に死ねなかったからである。

 私はネアンデルタール人かもしれないのに、私は季節に感傷的になっている。私は人間よりも人間らしいのに、旧人類なのだ。

研究室に呼ばれた私は、1か月前のテストと同じように、重いドアをノックして開いた。

「やあ、杉崎君。」

「どうも。」

 彼はやけに上機嫌だった。

「そこに座って。」と彼に言われ、私は以前とは違う、ソファーに座らされた。彼は書類を漁っている。

「あの、この間のテストは、どうだったので、しょう。」

「そう、今ちょっと説明するね。」

 そう言って、私はそのまま3分ほど待たされた。時計を見ていなかったら、その時間は20分くらいに感じられた。

「そうそう、これこれ。」

 彼は書類をソファーの前のテーブルに並べ、私に見せた。レントゲンの画像やよく分からないグラフのが並んでいる。

「まず、結論から言うと、君はネアンデルタール人だ。君のDNAの約63パーセントはネアンデルタール人のDNAだ。知能テストからみた直感的知能もネアンデルタール人と同様、高緯度でも順応できるように積極的に温かいものを好み、行動規範などもネアンデルタール人に通ずるものがある。」

「本当ですか。私は本当にネアンデルタール人なんですか。」

 私は案外冷静だった。それは自覚があったのかもしれない。

「現代の科学はそれを証明している。」

 彼はやけに学者らしく言っているように見えた。

「そうだ。だが、研究はここで終わりじゃない。君がネアンデルタール人ということは、君の両親もネアンデルタール人だ。そして、君の祖先は代々、ネアンデルタール人の血統を守っていたんだ。これはどういうことだか分かるか?」

「何万年もネアンデルタール人同士で交配をしていたんということですか。」

「その通りだ。ただ、問題はネアンデルタール人はネアンデルタール人の血統を守るために、ネアンデルタール人同士で交配をしていた。そこには、明確な意図があったんだ。」

「そもそも、ネアンデルタール人だとどのように見分けるのですか?ネアンデルタール人の私にも分かりません。」

 私はすこし乱暴に言った。どうしてもネアンデルタール人でありたくないという願望でもあったのだろう。

「そうなんだよ。そこで、研究の動機が成り立つ。ネアンデルタール人の知能には、人智を超えたものがあるのかもしれない。そして、ネアンデルタール人は今でも、ひっそりと本人たちが気付かない内に、彼らのコミュニティはしっかりと維持されているかもしれない。私の関心はそこに向けられている。」

 白衣を着た彼は学者ではなく、サイケデリックな錬金術師に見えた。

 

 

 研究室の後にし、私は白亜の学府を眺めた。学府は私を人間でなくした。そう思うと、グレーにくすんだはずの外壁は、修正液の白さよりも白く見えた。そして、学府の庭園に秋風が吹いた。私は生きている。

私はその日珍しく実家に帰った。両親には何も言っていなかった。

「どうしたの急に。」

 母は目を丸くして言った。私は母の顔を見た。しかし、私が想定していた顔ではなかった。母の顔はここまで端正で、女性らしい顔をしていたのか。もちろん、これまでの母の顔のままである。私の見る目が変わったのだ。それでも、まさか母の顔が人間らしく見えるとは思っていなかった。

「いや、残暑見舞い、というか。ちょっと顔出そう、と思って。」

「そうね、どうせ電車で30くらいで会えるんだから、たまには顔見せなさいよ。」

「父さんはまだ?」

「まだよ。最近は20時くらいに帰ってくるかしら。」

「そう。」私はこれまでの母の記憶を辿った。母の口調は常に淀みなく、清澄を保っていた。

 私は母の膝を見ようとしたが、衣服のせいでよく見えない。ただ、母の足がこれほど細長いとは思っていなかった。気になった私は機転を利かせた。

「ねえ、最近、マッサージ師の知り合いができて、いろいろツボを教えてもらったんだ。ちょっとマッサージしてあげるよ。」

「何、親孝行のつもり、何か変ね。」

 私は母を寝かせた。そして、ふくらはぎから少しずつ、母の足を親指と人差し指で挟むように揉んだ。私の手はふくらはぎから膝のほうへ揉む手を動かした。いよいよだ。私を生んだ源泉は、私と同じ存在であるはずだ。私は少しずつ歓喜するのを感じていた。柔らかい肉感が突如、骨の硬い感触に変わる。膝だ。私は母が猿かどうか知るのだ。

 私の揉む手は、ちょうど母の膝の上に辿りついた。そして、膝の上部、膝蓋骨を触った。

 母の膝蓋骨は冷たかった。そして、小さくで丸いのがありありと分かった。私はその膝蓋骨を美しいと思ってしまった。その膝の持ち主が母であるというのに。

母は人間であった。ホモサピエンスであった。

 私は失意のまま、マッサージをやめた。

「え、終わり?」母を驚いている。

「足の血行、をよくするだけで、だいぶ違う、らしいよ。」

 私は急ごしらえに嘘をついた。言ったこと自体は正しいのかもしれない。ただ、私は母を向かって3年ぶりくらい欺いた。

 母は喜んで、夕飯の支度をした。私はこの失意のもとに、私の出自について考えた。私はネアンデルタール人で、母はホモサピエンス。父はどうなんだろう。父の顔つきも体型も私に似ている。私は父に希望を見出した。父を人でないことを願う息子とは、なんと親不孝者なんだ、と私は自分で自分を嗤った。

 父が帰宅した。真っ先に私の顔を見て驚いた。

「どうした、バイトクビになったのか?」

「そうじゃない。バイトは順調だよ。貯金もフリーターとは思えないほど貯まってる。」

「そうか。それはよかった。」

「ねえ、父さんもマッサージしてあげるよ。さっきは母さんにしてあげたんだ。」

「気持ち悪いでしょう。何の風の吹き回しなんでしょう。」

母はエビフライを揚げる鍋に向かって言っている。

「いいじゃないか。どれ、ここに寝ればいいか。」

スウェットに着替えた父は、ゴロンと床に寝そべった。

「そうそう、そのままにしてて。」

 私は母にしたように、父の脚を揉んだ。父の脚にはハリがあり、しっかりとした筋肉が感じられた。筋肉の分、骨も太いように感じる。私の希望はますます大きくなった。そして、父の膝に差し掛かった。父の膝自体はとても大きく、ラグビーをしていたという父の青春に触れた気がした。

 膝の上部の膝蓋骨を触る。古傷だらけの膝の皮膚がグニュリとずれる。私はえっ、と声を上げて驚いた。骨は小さく、丸かったのだった!私の大きくなっていた希望は、小さくしぼみ、悲しい明るさも消えようとしていた。

 父も人間だった。父もホモサピエンスだったのだ。

「オッケー。足の血行だけでも良くすると、だいぶ違うんだってさ。」

「何だそれ。」父はあっけにとられている。

「マッサージ師の知り合いに教えてもらったんだ。」

私は同じ手で父も欺いた。父を過去に欺いた記憶は過去にはない。

夕食の席。懐かしい食卓でも、私は私の希望を捨てていなかった。

「父さんは、どうして今の仕事を選んだの?」

まったく興味のない話だ。私は人の仕事に興味はない。所詮は飯を食うための手段でしかないと思っている。味噌汁をかき回しながら、父は言った。

「そうだな。今の仕事はな。家に興味があったんだ。それで、家を建てたいと思って、建築事務所で見習いから始めた。」

「知らなかった。」

 本当に知らなかった。建築事務所で働いていることは知っていたが、その始まりが見習いだったとは知らなかった。

「今日は泊まっていくの?」母は尋ねた。

「いや、泊まらない。食べてしばらくしたら行く。」

「そう。」

 母は悲しそうだった。しかし、違う生物の悲しみにかまっていられない。私は何から生まれたのか。私の頭の中には、その疑問だけがあった。帰り道、川沿いの道を歩く。夜の川は私をどこかに連れて行ってしまうのではないか、と思わせるほどの潜んでいるような物静かさがあった。その川の気配に、私は何か無用の警戒をしていた。時折、萎れた夏草をみて、つい1か月前までは人間だった私に思いを馳せた。

 

 

 私は彼に電話をした。

「あの、今日両親の膝を、見たのですが、両方とも膝蓋骨は小さく、丸かったです。どうして私だけ、膝蓋骨、が違うのでしょう?」

「そうか、親は違ったか。君は本当に両親の息子かね?」

「私は両親の子じゃないのですか。そんな話きいたこともありません。」

「そうかい。いま遺伝子をもっと詳しく解析している。あまり気に掛ける必要はないよ。君はこの20数年、きちんと人間社会に順応して生きてきたんだから。」

 そういって彼はコーヒーを飲んでいる。電話越しでも分かった。挨拶をして、私は電話を切った。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 3か月後、科学誌に1つの大ニュースがもたらされた。

「ネアンデルタール人の生き残り、日本で発見される!」

 このニュースはマスコミをも賑わし、テレビも新聞もそのネアンデルタール人の所在を探した。

 私の家にはテレビがない。新聞もとっていない。もちろん、科学誌など読んだこともない。アルバイト先のコンビニエンスストアで、同僚からその話を聞いた。私はあわてて、彼に電話をした。

「山内先生。これはどういうことですか?私の情報はどこまで知られているのですか?」

「君か、あのニュースを見たんだね。君のことを学会で言ったんだ。すぐに論文でも発表すべきだと言われた。私は君のプライベートには配慮して、ある程度流れる情報は制限して発表したつもりだ。」

「でも、日本にいるなんて言って、今大騒ぎで探しているじゃないですか。」

「私もこれは想定していなかった。」

「簡単に言わないでください。今から研究室に行きます。」

 私は乱暴に電話を切って、すぐにあの白亜の学府に向かった。302号室のドアは、前よりも軽く開いた。

 書類で積み上げられた机の奥に、コーヒーを片手に持った男がいる。

「先生、説明してください。」

 私の怒号が室内に響いた。

「君には何も隠すことなく話そうと思う。それが、君と私のためになるからね。」

「じゃあ、話してくださいよ。」

 私はソファーに座り、彼は私の前に座った。

「コーヒーはいるかね。」

「結構です。」

 私の感情は簡単には静まらなかった。

「では、話そう。君はこれから、国立考古学研究所に移送される。君は今日から貴重な検体だ。怪我などはしないように。そのことは、君のアルバイト先の店長にも言ってあるから、安心してほしい。」

「店長に言ったんですか?」

「ああ、君は普通の人間でない、とだけ伝えたよ。」

「そんな言い方したら、だいたい察しがつきますよ。」

「そして、君は国から、いや世界から大々的に予算をつぎ込んで研究される。」

「聞いてません。」

「私は考えたんだ。君はネアンデルタール人で、私たちはホモサピエンスだ。君は少数派、現段階でも1人だ。君の協力が人類のますますの発展に寄与できるんだよ。」

「違う動物のあなた方に協力するつもりはありません。」

「人間を馬鹿にしてもらっちゃ困る。人間は違う生物でも同じ生物でも、解剖してまでも研究を進める。1匹の猿の意志なんて尊重しないんだよ。それが科学なんだ。そもそも私は、コンビニで働いている君に声を掛けて、仲良くしたのも、君がネアンデルタール人なんじゃないか、って思っていたからなんだけどね。」

「人間とは、ひどい生物、ですね。」

「そうなんだよ。客観的に君はネアンデルタール人だと証明されたんだ。分節言語の発音は苦手で、温かいものを好む、髪は少し赤く、胴長短足だ。さらに、膝蓋骨が大きくて四角い。君は人間じゃない。君は今、人間をひどい生物、と言ったね。君はそうやって、人間を相対化している。それが、君は人間じゃない何よりの証明だ。君にネアンデルタール人というアイデンティティを与えたのは、間違いない私たち人間なんだ。それを受け入れるということは、人間に屈するということだ。黙って研究に協力しろ。」

 

 

 彼はコーヒーを飲んだ。研究室内の空気は、まだ、秋の始めだというのに、重く人工的な暖かさに満ちている。エアコンから出る空気、ヒーターから出る空気。そして、コーヒーの湯気。この暖かさはとにかく不快に感じされ、じんわりと悪い汗をかいた。

 彼は続けて口を開いた。

「君がここに来たということは幸いなことで、君はこのまま、私と一緒に国立考古学研究所に来てもらう。私が呼び出す手間も省けた。感謝しているよ。もし逃げられてり、自殺でもされたりしたら、たまらなかった。やっぱり君の知能は猿なのかもな。」

 彼の高笑いが研究室に響いた。怒りの感情が、胃の下からこみ上げる。気持ちの悪い暖かさが、そのこみ上げる感情を加速させる。

「私は行きません。」

「行くんだ。」

「行きません。」

 私は立ち上がった。

 テーブルの上、右手の近くには電気スタンドがある。右手が少し伸びて、その電気スタンドの首をつかんだ。持ち上げる。コードがだらりとついてくる。電気スタンドの重い土台部分で、彼の頭を殴った。

 鈍い音。うめき声。思わず放した電気スタンドが落ちた音。それらが交わった不快な音の集まりが、研究室全体に響き渡る。

 うめき声がやみ、血は私の足元まで流れていた。私はすぐに研究室を出た。走ると、他の研究員に事が知れてしまうかもしれない。

 大学の門を出てから、私は駆けた。駆けて駆けて駆けたのだ。秋風は強く吹いている。私は風よりも早く駆けた。なぜ、夏の終わりに死ななかったのか。夏の魔物とは、若者の恋などではなく、生を脅迫するものなのだ。あの時、魔物の前で死んでおけば良かった。私は後悔しながら、歩みを止めた。

 気付けば、自宅の近くまで来ていた。あの日の夜に見た川。

 しかし、今私の前に流れる川は、同じでありながら、日の光を照り返し、美しい鱗を持った大きな魚のようであった。その魚は私に教えてくれた。私は人間を殺した。これは私に理性がないということだ。理性がない。それは人間でない。そう、私は人間でない、ネアンデルタール人だ。理性など本来持つべきでないのかもしれない。嗚呼、あの時膝を見せねば良かった。

 私は橋の欄干にもたれた。私の心の中は今年の夏の蝉のようにやかましいが、川辺とその周りの緑地は、私の心とは裏腹に、しんと静まり返っている。2万年前、私の祖先もこの景色を見たのだろう。私は携帯を取り出した。そして、「猿も木から落ちる」とメモを残した。そして、携帯は足元に置いた。

​ 橋の手すりを乗り越え、身は真っ逆さまに落ちていった。私は最期にホモサピエンスにも、ネアンデルタール人にも重力があるのだ、と思考を巡らしていた。

                               完

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