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こころ

~『2001年宇宙の旅』小説と映画を比較して~

参謀

 

 私は『2001年宇宙の旅』映画を観てから、小説を読んだ。映画と小説とは、全く様相を異にするものであった。その内容としての差は、行き先は木星ではないし、ホテルの一室のような部屋で死に、スペースチャイルドになるという形でクライマックスを迎えなかった。

 しかし、私が着目したのは、内容の差ではない。私が注視したいのは、表現の質の差である。つまり、HALやモノリスに感情の表現があるという点である。HALはコンピューターであり、モノリスは端的に表現できないが、強いて言えば情報を含み伝達する装置である。どちらも人間ではない存在だ。私はこのレポートで、それらが感情を持つものとして、物語を展開させると、読者にどのような印象を与えているのか、考察したい。

 まず、HALに感情があるとないとでは、物語にどのような違いを持たせるのか。着目するのはデイブが暴走したHALの機能を停止させるシーンだ。映画では、人間の不完全さを人間の手で超克する、などの解釈が成り立つ。しかし、小説ではHALの感情が綴られている。このことにより、HALの人間性が際立って読者に印象づけられている。ここでデイブは二人の殺人をしたと言えるのではないか。この殺人によって、デイブは宇宙空間の記憶を知り、雄大な旅をする権利を得たのである。この権利は人間に与えられた可能性の拡大であったのだ。

 そして、モノリスに感情があることで、物語の解釈にどのような違いが現われるだろうか。映画では、人間がモノリスを発見し、モノリスの正体、更にはモノリスを設置した知的生命体の存在を突き止めようと展開する。しかし、モノリス側の視点が含まれることで、読者は知的生命体を追う人間と、人智を超えた存在の両方を鳥瞰的に捉えることが可能になるのだ。

 『2001年宇宙の旅』は原作を映画化したものではない。映画と小説は同時に創作されたものである。おそらく、キューブリックとクラークは映画と小説の視点を変えていることで、小説の在り方を映画の注釈書としているのではないだろうか。普通、映画が小説を説明するように扱われることが多いが、この作品は小説が映画を説明しているのだ。

 ここまで考察すると、私は小説の可能性を感じざるをえない。小説を映画と比較した時に浮かび上がってくる、小説の心情を具体的に表現できるという点は、燦然と輝く小説の利点である。一般的に、映画にはナレーションでもない限り、「彼は嬉しかった。」「彼女は寂しさでいっぱいになった。」「彼はこの世の終末を知ったかのように、青ざめながらも驚いた。」と言うようなセリフの表現は不自然になので不可能である。小説という文章による表現技法が映画よりも優れているのは、この心情表現であり、映画の持つリアリズムという武器と異なり、小説には心情表現のみで、視点の変化や豊かな表現、解釈の幅の設定などが可能なのである。

 以上、『2001年宇宙の旅』の小説と映画を比較した私の論である。

SCHEDULE画像提供:https://flic.kr/p/9pGfXt​、Sweetie187/flickr

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