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「街灯」

 

 

 

 参謀

 

 

 

 

「これは革命になるぞ。」

哲也の父は、テレビのニュースを見ながら、ビールの入ったグラスを握りしめて言い放った。

父は少し興じている様子に見ているが、哲也は鋭い目でニュースを睨んだ。母は相変わらず洗い物をしている。時折、ニュースの音声は、その洗い物の音にかき消されそうになる。

 

 一年前に政府が打ち出した経済政策、企業審査法。不景気で喘ぐ中小企業を内閣府と経産省が合同で設置した経済産業振興準備委員会が審査し、合格した企業は大企業の傘下に入れる、というものだった。しかし、五か月前の審査結果は誰しもが予想をしていないものだった。合格は全体の三割。不合格の企業には、政府からの指導と補助が入る予定だった。だが、多く企業への補助は不可能となり、政府の政策は頓挫した。

しかし、騒動はそれでは終わらなかった。将来を不安視した低所得者層の間で、政府への不満は爆発した。国会前での大規模なデモは、より過激になり、警察が抑えることも難しくなった。暴徒化するデモ隊を、一部のテレビや新聞が支持。ジャーナリストや有識者も政府を批判した。これによって、暴徒たちは東京に集結し、警察署や官公庁を襲撃した。事態の沈静化に苦心した政府はついに騒乱罪を適用。この騒乱罪の適用が、今夜のトップニュースだった。

 

 哲也は聡明な高校生だ。美術を愛する青年だった。体形は平凡な中肉中背だが、整った鼻筋、少し大きな口が彼の外見の特徴だ。父は外では堅実な銀行員だが、家の中では奔放な素振りを見せる男だった。

 父は暴徒が火炎瓶のような物を警察署に投げる映像を見ながら、どこか楽しそうにしている。「革命だ。革命だ。」とわざと慌てふためいた様子さえ見せている。

しかし、哲也の感情は決して興奮していなかった。それは若者特有の冷めた目で斜に構えているわけではない。彼は強い失望に苛まれていたのだ。

彼には信念があった。それは全ての人間が、哲学的吟味と美学的実践を基調とした生き方をするべきというものであった。

彼にとって革命とは美しさの至高であった。上下の逆転は善の誕生であり、行動が生んだ結晶に他ならなかった。彼の聡明で若い頭脳はそう考えていた。

 だが、今目の前で発生しているこの革命は、哲也の信念及び、哲也の革命の定義に全く一致してなかった。

 低所得者はもはや破壊のみを目的としており、進歩的を自称する知識人との知的コミュニケーションは全く成立していなかった。そして、哲也の家庭のような中産階級、もしくはそれより裕福な人間は、革命勢力をまるでアクション映画を観るように眺めていた。むしろ彼らは、革命勢力の暴動を「もっとやれ!」と言わんばかりに、威勢よく心地よさそうに見ている。革命勢力の本当の敵は、自身のことだと分かっていないようだ。

 哲也にとっての革命はエンターテイメントではない。芸術そのものである。

 ただ、この革命が哲也にとって、失望の対象となろうとも、彼にとっては峻烈な経験であったことは間違いなかった。

 

 彼は興奮する父親を横目に、自分の部屋へ戻った。ベッドに横になり、スマートフォンでニュースを見た。やはり、騒乱罪の適用が大々的に掲載されている。

「非国民の警察は、純然な国民を取締るのか!」

 と扇動的なタイトルの記事だった。あらゆるメディアは暴徒たちの襲撃を恐れ、非難することすらできないようだ。

「大人はみんなこうだ。たいてい保身に走る。いつか親父は、暴徒にも融資を始めるかもしれないな。」とため息をついた。

 ニュースを見るのをやめ、すぐに画面をSNSに切り替えた。学校の連中も、この暴動についての投稿をしている。

「どうなっちゃうんだろう日本。」

「俺も参加しようかな(笑)」

 そして、哲也の嫌いな女子生徒は、

「明日学校休みにならないかな~」と投稿している。明日学校であったら殴ってやろう、と思い、哲也は腕を思い切り振ってみたりもした。

 翌朝、哲也は母親から今日は学校が緊急休校になったと聞いた。学校の無知な連中の様子を見られなくて、哲也は残念がったが、むしろ憤りを抱かずに済んだと思うようになった。

 学校もなく、やることもない哲也は、絵画をネットで眺めた。哲也は休日を、よくこうして過ごしている。

 いくつかの絵画を次々と観ていった。マネ、セザンヌ、東山魁夷…。三分ほど眺めては、次の絵画を眺める。パソコンの画面でも、美を生み出した画家たちと繋がれる気がした。哲也はこの恍惚を噛みしめることに、幸福を感じた。それは、芸術の何たるかも分からない高校の連中が知らない恍惚を、哲也は知っていた幸福である。母の愛を愛と知って独占する、独善的で後ろめたさすら感じる幸福と同じものである。

 七枚目に何を見ようか、彼はネットの海を泳いだ。これまでに見た作品も多くある。だんだんと退屈さを感じていた時に、一つの画家の一つの作品に邂逅した。

 ウジェーヌ・ドラクロワ作、『民衆を導く自由の女神』。ロマン主義を代表する作品の一つである。その絵画を観たとき、哲也は、自分の思想と哲学が正しいと確信した。

 有象無象に集結する革命勢力を導くのは、光の当たる女神。その光は女神自身が発しているようにも見える。女神は左手に銃を持ち、右手にはトリコロール、フランスの三色旗を掲げている。その姿は、まさに美しさそのものだが、絵全体の印象は暗がりに満ちている。暗澹たる生活から、光ある未来へと歩み出す民衆は、哲也の目により生き生きと伝わった。

 彼はこの日、他のどの絵よりも長い時間、この『民衆を導く自由の女神』を観ていた。

 彼の革命に求める芸術性や美学は、こうして固められた。

 

 

 二、三日すると、暴徒による暴動は息を潜めた。十五人ほどの逮捕者も出たが、さほど話題にはならなかった。

 それから、国会では、国民の関心事だった暴徒たちの存在について取り上げられた。明確な組織なのか、それとも野次馬たちの結集なのか。その際、その結集は組織なのではないか。破壊活動防止法の適用が可能かどうか、今後の展望も含めて、活発に議論が交わされた。

 哲也の学校も緊急休校措置が解除され、平常通りの授業が再開した。いつもと変わらない日常を装った日々。クラスの連中は休み時間になると購買部へ走る。

「急げ!唐揚げパン取られるぞ!」

 哲也の教室まで、大きな生徒の声と足音が響く。哲也の教室は四階だが、購買部は二階だ。二階にも三階にも他学年の教室があるから、人気の商品はすぐに売り切れてしまう。

「それにしても、落ち着いてよかったな。」

 数学も日本史も、担任の生物の教師まで、口を揃えて、革命暴動の沈静化に安堵の声を漏らす。生徒の中には、「つまらない」と不必要に憤るのもいた。

 哲也は革命を面白そうにしていた父と、革命の沈静化に胸を撫で下ろす教師との精神性を比較した。授業中もそれだけで、十分な退屈しのぎになった。

 一日中考えた哲也の結論はこのようなものだった。

 教育というものは、おそらく一日では成立しない。しかし、ほんのレジャーや非日常的体験は一日で成立する。むしろ、非日常的体験が日常化すると、それを苦痛に感じてしまうのだろう。

 哲也の仮説は、「では、この教師たちは本当に教育者か」という疑問にぶつかった。しかし、彼は考えることをやめた。隣の席の安藤に声をかけた。安藤は哲也と頻繁にしゃべる女生徒だ。哲也はこの女がまだ連中たちよりも賢いと思い、真面目な話をする時は、安藤に話かけている。

「ねえ、この革命ってやつどう思う?」

 連中は革命の話すらしないのだ。

「私にはよく分からないけど、日本の格差とかの不満が形になったと思う。でも、その不満を形にしたってことは、誰かの仕業なんじゃないかな。」

「誰かの仕業?」

「だって、不満はいくら大きくなっても、翌朝になったら、みんな黙って働くじゃない。誰かが、革命を起こそうって旗振り役だったり、指示をしている人がいるんじゃないかな。」

 哲也はこの言葉から、安藤が革命を支持しているのか分からなかった。しかし、その「誰かの仕業」ということは、新たな発見だった。哲也には、その「誰か」というのが、かの革命絵画の女神であるべきだと思った。女神仕業は美しく、国家を逆転させることだった。この国でいうなれば、旧来の資本主義的国家の打倒と、新たな福祉国家の建設である。

 

 

 哲也のこの理想主義を共有する人間が、彼の周囲にはいなかった。自らの理想主義を語り、理想主義者だと嗤われることを恐れ、理想主義とは若さそのものだと、知っていたのだ。

 六時間目の授業が終わると、部活のある連中と、何もない連中とに分かれる。彼は安藤に、「いっしょに帰ろう。」とだけ静かに言った。

「いいよ。」

 彼女も静かに言った。哲也は安藤のこの相手に調子を合わせるところを気に入っていた。

 二人の家は高校から同じ方向にあり、電車に乗って帰る。電車のダイヤも朝から平常通り運転している。

「騒乱罪が適用されて、緊急休校になるほど治安が悪かったのに、何ともないみたいだ。」

 哲也は不思議がるあまり、独り言のように言った。

「誰の仕業なんだろう。またあるのかな。」

 安藤が同じく独り言のように言ってから、哲也は自分が言葉を発していた事に気付いた。地下鉄のホームの生温い風が二人を包む。彼は、この生温い風に嫌悪感を抱いた。ホームの先から近づいてくる地下鉄の顔。その顔を睨みつけながら、哲也はさっきまで包んでいた風が拭われるのを感じた。

 家に帰ると、哲也はすぐさまネットを開いた。

 検索エンジン打ち込む言葉は、「五月二十三日 革命 正体」。

 検索結果の一番上に出たのは、新聞の記事だった。下にスクロールしてゆく。三十件目くらいまで下ると、ようやく気になるホームページの題があった。

 「新日本国民党」。哲也はその聞いたことのない党名に引っかかり、その題をクリックした。

 ホームページは白を基調としたデザインだった。党是と書かれた文章を読んだ。

 

「我が新日本国民党は、真の愛国心即ち国民を思う情のもと、新たな政治を邁進させる。その過程の中で、旧来の主義主張に基づき、我々を罵る奸は一掃する。常に列島に住む民草を思い、我らも民草だと自覚する。そこから政治や経済は起こるのだ。」

 

 哲也はその党是を読み、この新日本国民党こそが、暴徒たちの先導が、安藤の言っていた「誰か」ではないかと考えた。しかし、このホームページはここで終わっている。他に得られる情報はない。

 そこから、しばらくは何も変わらない日常が続いた。新聞もテレビもネットの掲示板も、あの暴動について論ずることはなくなった。話題をさらったのは、芸能人の不倫と中東情勢だった。

 しかし、哲也はむしろ、心が落ち着かなかった。新日本国民党のホームページを見ては、何も変わっていない事に落胆していた。

 青年は安寧をまるで、毒のように嫌う。安寧の身近な象徴が親であり、教師であった。青年が生きるには、逆説的に生の存在を危ぶむものが必要であるのだ。

 哲也は暴動が鎮まってから、あの暴動に期待をしていた。あの暴動は、革命という美の頂点でもないと知りながらも、求めていた。

 学校に行っても、家に帰っても、哲也の日常は無であった。彼の営みには、何らの刺激もなかった。

そんな日常が一か月ほど続いた。彼は彼の人生の青春が無であることを受け入れかけていた。

哲也は久しぶりに、「新日本国民党」のホームページを開いた。すると、前とは少し仕様が変わっていることに気付いた。右端に「アクセス」の文字がある。哲也は無心でそこをクリックした。すると、メールアドレスと「国への思いを綴るように。」と短く書いてあった。

 彼はそのメールアドレスにメールを送った。

「私は都内の高校生です。私はこの日本の国土を豊かにする為にも、既得権益を打破すべきだと思います。そして、多くの人々に富を開放し、人々の生活に潤いと健全さをもたらすべきだと考えます。そのためにも、革命が必要です。今こそ、憂国の志士が集まり、革命を起こすべきです。」

 メールを送信したら、ほんの十分ほどで返信が来た。

「貴君の憂国の思い、よく分かりました。この資本主義社会の果てが失敗であったことを、受け止め、私たちは行動を開始する用意があります。ぜひ、貴君にも参加して頂きたいため、下記の住所に御出でになってください。時間はいつでも構いません。」

 哲也はどこか恐ろしさを感じた。自分の送ったメールが本当に返ってくるとは思っていなかったのである。

 住所には、杉並区高円寺とある。の明日の夕方にでも行こうと彼は思った。

 

 

 七月二十三日。この日は雨だった。哲也は学校が終わると、その足で高円寺へと向かった。高円寺の駅から徒歩十分。古びた雑居ビルがその住所の指し示す建物だった。ビルの前には大きなワゴン車が止まっており、中に汚らしい中年の男が、運転席で寝ていた。

 ビルの中に恐る恐る入っていった。階段も古く、一段一段上るたびに、軋む音がした。

 その三階。ドアを開けた。ドアは軽く、思っていたよりも、容易に開き、彼は拍子抜けをした。幼いころ、どこかの古い内科医の病院で体験したことのあるドアだ。

 部屋の中は壁紙が剥がれ、コンクリートがむき出しになっている。そのため。部屋の全体的な印象は、灰色というものだった。

「ようこそ、メールを送ってくれた高校生かな?」

 不意に声がしたので、哲也は分かりやすく驚き、声のした方向を見た。一人の若い女性がいる。その女性は足を椅子に座っているが、机に脚を乗せている。

「はい、関口と申します。」

「うん、とりあえず、そこのソファーに座って。」

 哲也は手で示された方向に座った。ソファーの材質は分からないが、その質感はどこか湿っているように感じた。

「どうして、ここに来たの?」

 女性は立ち上がって、室内を歩き回りながら、彼に尋ねた。彼はその女性を気にしながら、

「憂国の志があり、その志を全うするためです。」

「憂国の志…。」

「国土に住む人々が、豊かなに安定して生きてゆくために、憂いています。」

「そう。私たちが何をしているか、知ってる?」

 哲也は初めてここで女の顔を見た。その顔は、悲しみを何かの自信で装うことで隠しているようだった。しかし、その様子は決して弱弱しさなどなく、どこか男性的な美しさを湛えていた。

「分かりません。」

 哲也はゆっくりと答えた。実際、あの暴動とこの組織、ましてはまだその組織の構成員は一人の女性しかいないのだ。

「君には教えてあげる。五月二十三日の革命騒動あったでしょう。街中が民草の怒りの声で埋め尽くされ、その怒りは炎になって、東京の明るくした。」

「ええ、よく覚えています。」

 哲也はここで確信した。「新日本国民党」こそ、あの暴動を裏で操っていたと。そして、今日危険を冒して、見知らぬ建物で、見知らぬ人と会話をしている。全ての行動に価値が一斉に見出されたのであった。

 女は笑って、話を続けた。

「新日本国民党は、あの革命騒ぎの後に出来た組織なの。あの革命は、所詮は騒ぎ。革命未だならず、といったところかしら。」

 女の口ぶりは、まさに女性的で時代錯誤とも言えた。しかし、その口調は優雅かつ淫靡だった。

「そうだったんですか。てっきり、その新日本国民党が主導していたものかと思いました。」

「あの革命は未完成。だから革命を完成させるために、私たちは立ち上がった。今、革命勢力は沈静化しただなんて言われているけど、私たちはすでに動き出しているのよ。」

「何をしているんですか?」

「革命を成功させるには、デモなんかじゃ駄目なの。デモは行動じゃない。そう、本当の行動は…」

 女はそこで話を止めた。哲也はその甘美な音楽を聴くように聴き浸っていた。その突然の中断は最大の不快であった。

「何も知らない貴方に話過ぎる所だったわ。ここから先は入党してから、聴いてもらうわ。」

「とても気になります。」

「じゃあ、どうする?」

「少し、考えさせてもらえませんか。」

 哲也は決してあの革命騒ぎを支持していない。革命自体を支持していないが、革命が人間の心を躍らせることは知っていた。新しいことは人の心を奪うようにして、強く揺さぶる。

「そう。新日本国民党のこと誰にも言わないでね。」

 すると、扉が開き何者かが入ってきた。哲也は振り向いた。入ってきたのは、哲也がビルの前で見たワゴン車の運転席で寝ていた男だった。男は女とは対照的に薄汚い恰好をしている。

「準備できました。」

 男は低い声で報告した。女はこくりと頷いた。

「新しい党員ですか?」

 男は尋ねた?

「まだ、分からないわ。憂国の志をもった若者よ。入党はまだしないようね。」

 女は哲也を睨んだ。その視線は鋭くも、やはり甘美さを含んでいた。

「口外したら、殺すからな。」

 男は哲也の顔を覗き込んで言った。哲也は男の汚い無精髭を見ていた。

「今日は失礼します。またお話を伺いに来ます。」

「そう。いつでもいらっしゃい。」

 女は笑った。その笑みは無邪気にも見えた。何か大切なものを破壊しても、自分が何をしたのか、考えもしない子どものような笑み。哲也は女の憂いを隠したあの表情からは、考えられない笑顔を見て、困惑した。

 雑居ビルを後にして、しばらくビルの周りを歩いた。

 高円寺も住宅街は、駅前と違った様相を見せている。静かで時間が太陽光によって支配されているような感覚がする。ビルの周囲を二周三周としていると、ちょうど雑居ビルから出てきたあの女と男を見た。彼女らは止めてあったワゴン車に乗って、どこかへと去っていった。哲也はそのワゴン車をずっと見つめていた。ワゴン車が照らす赤いブレーキランプ。その明るさは、革命の灯り、新時代の灯りなのか。彼は考えながら高円寺駅へと歩いて行った。

 哲也は帰宅をしてから、思考を巡らした。彼女らは革命を失敗したとしている。確かにあの暴動は革命としては失敗だ。国家の体制は何ら変わっていない。国民の精神は未だに経済活動に注がれている。彼らは正義なのか、それとも暴力で治安を悪くする悪なのか。手哲也はベッドに横たわったまま考えた。

 哲也は女の言葉を思い返した。「デモは行動じゃない。本当の行動は…」。その言葉の真意を探った。本当の行動とは何だろうか。デモではないのか。デモは民主主義の結晶だ。人々の哲学的吟味が、知行合一として現われたのではないか。そのデモを否定するのは、間違えている。哲也の青い思考は、結論をそう導いた。

 

 哲也の高校は夏休みに入った。彼には部活動もなく、これとしてやることもない。美術展の案内などを見て、行くべきかどうか考えていた。安藤でも誘おうか。彼はぼんやりと考えていた。

 彼の夏が、どことなく漠然とした感から抜け出せないでいるのは、彼のあの青い思考の矛先を考えていたからである。

 親に伝えるのか。親に言ってどうする。革命騒ぎは終わっている。世話好きの母は、何か心配するのではないか。

 先生に言うのか。教育者の思考ほどぬるいものはない。なぜなら、教育というものは、第一線を走らないからだ。

 安藤か。安藤は聡明な女だ。聡明なだけに、哲也の思考の脆さが露呈することを彼は恐れた。その脆い点を、同学年の女によって突かれるのを恥だと思ったのだ。彼は自分で自分の思考が脆いと知っていたのである。

 この演繹的な思考の果てに、哲也は新日本国民党に辿り着いた。あの甘美な口調に、自分の思考を破壊されたいとも思うようになった。

 哲也は来週の木曜日にあの雑居ビルに行こうと思った。

 

 高円寺の駅前は夏でも騒がしかった。ロータリーには暑そうにハンカチで首元を拭うサラリーマン。動く気配のない黄色いタクシー。耳を鮮烈に突き刺す蝉の声。哲也の心も穏やかでなかった。住宅街にも蝉の声はつきまとい、彼は何度も帰ろうと思った。意を異にすることを言えば、あの男に暴力を振るわれるかもしれない。そう考えている内に、例の雑居ビルの前に着いてしまった。

 それでも、哲也は帰ろうかどうか迷っていた。雑居ビルの周りを、前のように何度も歩いた。しかし、蝉の声は何度歩いても、止まない。

「悪いことをされたら、警察に言えばいい。」哲也は意を決し、ビルに入っていった。彼はこの時、自分が個人的な挑戦が大義を力ずくで結び付けられていた。

 ビルに入ると、蝉の声はすっかりと止んだように感じた。聴こえる音は、階段の軋む音と哲也の上がる息の音のみだった。

 彼は見た目よりも軽いあの扉をノックして開き、部屋に入った。

 部屋にはあの女がいた。長閑に煙草を吸っている。

「すいません、お話があって。」

「入党を決めてくれたのかな?」

 女は前にあった時よりも、若く見えた。おそらく三十歳にもなっていないのだろう。

「いえ、僕の思想を聴いてほしいんです。その思想について評価してほしいんです。」

「評価?」

「そうです。僕の考えは一体何なのか知りたいんです。」

「何を言っているのか、よく分からないけど、とりあえず聴いてあげるわ。さあ、お話なさい。」

 哲也は前と同じようにソファーに座り、女は哲也の向かいにあるソファーに座ったが、斜め前の位置でソファーの端にもたれ掛かっている。

「僕は民主主義者です。民主主義は国民を信じるという性善説に基づいています。そして、国民は暴力を用いずに訴えます。それが法の支配です。国民は法治国家の日本の政治に関わろうとした時、声を高らかに上げるしかない。その常套手段がデモです。デモは民主主義の結晶です。その結晶を僕たちは大切にすべきです。」

「それで終わり?」

「はい。だから、デモはしっかりとした行動なのだと思います。」

 哲也は思っていたことを言い切ったことに、満足気でいた。女は黙って、灰皿に煙草を押し付けている。

「若いわね。」女は小さく笑っている。

「若いですか。」

「そう。若い。若いというのは、二種類なの。全部を信じるか、全部を信じないか。」

「僕は全部を信じています。」

「そうでしょ。どうしてだか言える?」

「理想の社会には、全ての人の哲学的吟味と美学的実践が必要です。そして、理想の社会はいつか達成されます。」

「ませてるけど、可愛い高校生ね。」

 女のたしなめる言い方に哲也は何も苛立ちを感じなかった。むしろ、女のエロティックな様子を恍惚に感じる一方だった。

 女は机の上の灰皿を遠くに除けてから言った。

「いい?全ての人に哲学的吟味なんて無理なの。ましてや美学的実践なんてもっと無理。だって、大衆の全員はそこまで賢くないから。七割は賢くても、残りの三割は愚鈍。もしくは無関心。関心を持つこともできないほど、教養が欠けている…。特に革命が起こる時はね。だって、経済的な格差と教養は比例するから。どんなに教育がしっかりと行われても、革命が必要なころには、教養の差はとても大きいの。人間の業への罰かしら。美学的実践については言うまでもないわ。教養のある人間は大抵、金を持ってる。だから教養を持てば持つほど、革命の必要性はなくなる。むしろ革命を防ごうとする。」

「革命は絶対善なんですか。」

「それはあなたもそう思って?」

 哲也は革命に対する価値観を見透かされ、驚いた。女は驚く哲也に構わず続けた。

「あなただって、革命が起きるんじゃないかって聞いて、心が昂ったはずよ。その若い精神は、革命の文字に必ず歓喜する。さらに、あなたは正義心も強い。実は民衆を愚かだと思っている。そうでしょ?」

 外がまぶしい。今日は猛暑日になるとも言われている。日差しを見るだけで、蝉の声が聴こえてくる。

「たしかに、そうです。革命は人を興奮させます。僕も例外ではありません。ただ、民衆を愚かだとは思っていません。」

 哲也は声を大にして言った。

「そんなことないはずよ。あなたのように正義心が強くて、賢いと周囲を見渡すだけで残念で仕方がない。分からない人を分からせることほど苦労することはないわ。」

 沈黙が流れた。古いクーラーが部屋の隅までに、その無様な音を響かせている。

「ありがとうございます。勉強し直します。」

 哲也は受け入れた。彼の思考はこうして、保存された。

「ねえ、うちで勉強しない?」

「うち?」

「新日本国民党で、より良い思想を手に入れない?美学的実践とやらも出来るわよ。」

「そうですか。」

 女の淫靡さは哲也を操作していた。

「一度、入党したら抜けることは出来ないのですか?」

「余程の理由じゃない限り、離党は許さないわ。革命が成功したら、いいかしら。」

「党の全貌が見えないのと、以前おっしゃられていた本当の行動を教えてもらっていないので、まだ入りかねます。」

 彼の防衛本能は、理性を以って彼を守ろうとした。

「党の全貌。この事務所には十人くらいが出入りしているわ。もう一つ、江東区砂町の方にも小さな事務所がある。党首は私。他に肩書らしいのはないわ。そして、この党の目的は革命の成功。国民の真の幸福を目指すの。あとは…。本当の行動ね。デモは行動じゃない。本当の行動とは、死が伴うの。それは私たちが死んでも、国の要人が死んでも同じ。政治的な意図で人が死ねば、それは行動よ。これは私たちの革命像そのものなんだけど、私たちは今与党の要人の暗殺を企んでるわ。革命とは死によって、成立するの。革命の本義は上を倒すこと。それが私たちの目標よ。」

 女は堂々と言った。夏の日差しが彼女を照らす。しかし、その光は、彼女から出ているようにも見える。哲也はこの時、あの『民衆を導く自由の女神』とこの女を重ね合わせたのだ。屍の上にを歩く、希望に満ちた女性…。

「話し過ぎちゃった。もう入党してもらうしかないわ。」

 外国のドラマのように白々しい手ぶりをしながら、女は言った。

「私は党首の佐々原。よろしく。」

 ようやく佐々原と名乗った女は、手を出した。哲也はそのまま思わず握手をした。佐々原の手は、夏なのに冷えた鉄のように冷たかった。

「関口哲也です。宜しくお願いします。」

「八月十九日の午後に、要人暗殺の計画を立てるわ。今はそのために、いろいろ調査中なの。」

 哲也は深々とお辞儀をして帰った。高円寺の街が夕陽に照らされ、一面オレンジ色になっている。

 

 八月十九日。哲也は例の雑居ビルに足を運んだ。これまでは佐々原と一人の男しか見ていなかったが、この日は哲也を入れて八人だった。ソファーは部屋の端に動かされており、ほぼ全員が中央の机に向かっていた。机には地図が展開されている。

「こいつ、入ったのか。」あの男が言った。

「そう、関口哲也君。高校生よ。でも頭は良さそうだし、何しろ志が高いわ。」

 全員職業不詳の怪しい男たちだった。佐々原を除いて。

 早速、計画の立案が始まった。

 襲撃の目標は経済産業大臣、岩村寛一郎。企業審査法や経済産業振興準備委員会を主導した男だ。

 岩村邸は世田谷の豪徳寺にある。広い庭園があることで、地元でもかなり有名らしい。 

 

 

 襲撃の時刻は夜二十時。

豪邸かつ政府要人であるため、侵入できないと考えられている塀を乗り越ええて、敷地に侵入する。そして、警備員に気付かれない内に、住宅の中に入り、迅速に岩村寛一郎を暗殺する。

次に武器の話になった。武器は拳銃とナイフ、警棒が用意されている。会議は、誰がどの武器を持つかという話になった。

 長年いた党員たちが小気味よく話している中、哲也は思い切って発言をする。

「ナイフで切り付けるのは危険だと思います。もし岩村を探すのに手間取り、家族が抵抗するとき、ナイフで切ると、悲鳴を上げます。そうすると、警備員に気付かれる可能性があります。そのため、拳銃も岩村以外には使わない方がいいと思います。」

 哲也の発言に、一同は納得した。

「よく言った。」佐々原は腕を組みながら言った。

「なるほど、いい気付きだ。」哲也を新参者扱いしていた党員たちも哲也を褒めた。哲也は漸くこの作戦の重さを知った。しかし、逃げ出すわけにはいかない。党員はもう哲也を認めている。

 会議は順調に進み、そのまま終了した。今から重大事件を起こす人間たちとは思えないほど、彼らは冷静だった。

 作戦の決行は八月二十八日、土曜日だ。

 

 哲也はそれまで一見穏やかな日々を過ごしていた。夏の激しい光とは裏腹に、家で大人しくしていた。退屈な読書とエル・グレコの絵画。夏に潜む死の影を振り払うつもりでいた。しかし、哲也の生活は穏やかだか、その内実は夏の日差しと蝉の声のように騒めいていた。「俺は人を殺すのか。」これまでの人生では考えたことのない事例に、哲也はたじろいだ。それでも、哲也の穏やかな生活は彼に言い聞かせた。「決まったことだ。革命のためだ。」

 恐ろしいことに、日常もしくは習慣とも言うべきものは途轍もない力を持っている。それは、白日の下に晒された異常な存在を無かったことにするのだ。

 哲也は、哲也の生活はあの疑問を無かったものとした。むしろ、決意をより強いものにした。

『日本の全国民が、哲学的吟味と美学的実践をせずとも、この俺がする。覚悟しているんだ。』

 

 

 

 八月二十八日、時刻は十七時。天気は小雨だった。襲撃に関わる党員は、高円寺の例の雑居ビルに集結した。哲也も母に、「今日は友達の家でお泊り会がある。」などと粗雑な嘘をついて、そこにいる。

 部屋の一番奥には佐々原が煙草を吸っている。党員はそれぞれ拳銃の点検をしている。哲也は何もすることがない。彼の武器はサバイバルナイフだ。暇を持て余した哲也は、中央のテーブルに広げられた地図を見た。ここには人が住んでいる。日本国の大臣だ。今からのその大臣を弑するということを考えると、何やら呼吸は荒くなった。

 十八時、二台のワゴン車がビルの前に停まった。そのワゴン車に四人ずつに分かれて、乗り込んだ。梯子なども車内に入れるため、ワゴン車は十分窮屈だった。哲也の横には佐々原が座っている。少し煙草の匂いがする中、やはり淫靡な女性の優雅な匂いもした。その匂いを嗅いだ哲也は鼻腔にこの上ない快感を味わった。

 十八時半。二台のワゴン車は出発した。車は環状七号線を軽快に走る。車と車はトランシーバーで常に通信が繫がっている。佐々原はその片方を持っており、「ゆっくりでいい。」と指示を出している。

 哲也は環状七号線の浅い夜を照らす街灯を眺めていた。過ぎ去っても、過ぎ去っても、次の街灯がある。その様子が哲也には腹立たしくも、滑稽にも思えた。そして、何故か佐々原ではなく、安藤のことを考えていた。深くて聡明な思考を持っているが、それを校舎では表に出さない。そんな安藤のことを哲也は羨ましいと思っていた。

 車は代田あたりで右に曲がり、小田急線沿いに走った。近くに警察署もあったが、何も警戒はしなった。そして、二台のワゴン車は豪徳寺の暗い住宅街に入っていった。

 岩村邸は話で聞いていたよりも大きかった。正面の玄関には警官がいる。計画通りだった。そのまま、岩村邸の背後の神社の前に車を停めた。神社には人のいる気配はなく、容易に岩村邸内に侵入が可能だ。車に一人ずつ待機し、残りの党員は邸内に入った。防犯がカメラはもちろんある。時間との戦いとも言えた。二階の部屋の電気がついている。岩村寛一郎の書斎だ。そのため、梯子を二階かけた。そして、三人がそこから昇る。残りの三人は縁側から侵入し、岩村大臣を逃すことの無いように一階を制圧する。哲也とあの髭面の男、そして佐々原は書斎へ昇る班だ。

 髭面の男から哲也、佐々原の順で梯子を昇る。哲也が梯子を昇ると、梯子はミシリと軋む音がした。その音は、世田谷の夜の帳に響き渡った。この音が安藤に聴こえただろうか。哲也が考え込むと、「早くしろ」と男が急かした。

 三人が一階の屋根の上に昇った。男がリュックからハンマーを取り出した。そして、思い切り書斎の窓ガラスを叩いた。三回叩いた。その音は、さっき哲也が気にしていた音に比べ物にならないほど大きかった。破られたしじまは、党員を奮い立たせた。

 三人はすぐに書斎に入った。そこには眼鏡をかけた岩村寛一郎がいる。いつもテレビで見るのは、眼鏡を外した姿なので、哲也は岩村大臣が老けてみえた。

「何だ!お前らは!」岩村大臣は大声で怒鳴った。

「新日本国民党党首、佐々原かえで。民草の安寧のため、貴様を殺しに来た。」

 佐々原の鋭い声が書斎に響いた。

 それと同時に書斎の扉が開いた。そこから、夫人と思われる女性が入ってきた。

「何ですか!」夫人も大声を出す。

 髭面の男がスタンガンを出して、スタンガンを持った手で夫人の腹を殴った。

 夫人はスッと倒れた。異常に気付いたのか、家族が階段を昇る音が聞こえる。佐々原はトランシーバーで「入れ。」と指示を出した。もう一方の班が縁側から侵入する。その時、玄関には爆弾が仕掛けられている。警官が入ってくるのを防ぐためである。

 岩村大臣は毅然としていた。

「人殺しが政党を名乗るな。」

「人殺しも政治よ。ましてや、貴方がたは何人もの人を殺そうとしてたわ。」

 階段から男二人が昇ってきた。髭面が一人を相手するが、もう一人が書斎に入ってきた。佐々原は拳銃を取り出して、男に向けた。男は手を挙げて動きを止めた。

「関口、今よ!」

佐々原が大きな声を出した。私は無我夢中でサバイバルナイフを出して、岩村大臣に向けた。

「まだ若いだろう。」大臣が言った。

「関係ない。国民だ。憂国の草莽だ。貴様を殺す。」

 哲也は机を蹴り飛ばした。そして、ナイフを振るった。大臣はそれを避けたが、奥へ追い込まれた。

 大臣は突然、哲也に襲いかかった。哲也は身を小さくして、ナイフを突き出して突進した。

「父さん!」という声が書斎に響いた。

 哲也は血まみれになっている手を見た。そして、後ずさりをして大臣から離れた。大臣はどたりと前に倒れた。

 佐々原は拳銃で男を殴り、気絶させた。

「逃げるぞ。」

 佐々原は静かに言ってから、トランシーバーにも同じように言って、三人は脱出した。来た道を戻り、ワゴン車は速やかにそこを立ち退いた。車が発信する直前、地面が揺れた。驚いた哲也に佐々原が言った。

「爆弾だ。警察も間抜けだ。手、血まみれよ。拭きなさい。」

 佐々原はペットボトルに入った水をタオルに染み込ませて、哲也に渡した。

「奸賊の血だ。」髭面が言った。

 哲也はそれを聞き流して、環七の街灯を眺めていた。

​完

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