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三島由紀夫作 『美しい星』について

参謀

 

 

 戦後の日本文壇史に燦然と輝く一人の男がいる。三島由紀夫である。『潮騒』や『金閣寺』などの名作を残し、その名作は今でも多くの人々に読み継がれている。さらに、ミシマ文学は広く世界でも有名で、彼はノーベル文学賞の候補にもなっていた。日本の美やエロスを追究し、日本の在り方を常に求めた彼の生き様は、まさに昭和の巨星と言える。

 そんな彼の作品に一つの異色の作品がある。『美しい星』。エッセイなど、小説以外の作品を多く残した三島由紀夫が書いた唯一のSF小説である。本作は2017年には映画化され、核戦争という背景を持ち、現代社会でも不朽の作品として知られる。

この文章では、三島由紀夫を人間的に、作家論的に分析し、SF小説『美しい星』とは三島にとって何だったのか。そして『美しい星』は私たちにとって何なのか。この二つの疑問を掘り下げようというものである。

 まず、『美しい星』は書いていた頃の三島由紀夫に焦点を当てる。『美しい星』が『新潮』に連載されたのは、1962年。彼が37歳になる年である。その前年には、『憂国』を発表。彼の皇国史観はこの作品に封じ込まれていると言ってもいい。そして、『宴のあと』を巡るプライバシーの侵害問題で、有田八郎から提訴される。また、剣道で初段に合格し、彼の肉体の完成度は一つの到達点を見せる。さらに、戯曲の制作にも精力的に関わり、サンフランシスコで日本シンポジウムに出席、パリの雑誌で『金閣寺』が紹介される。つまり、1961年という年は、三島由紀夫の中にある文学に対する思想、日本に対する思想、そして世界に対する思想を、彼が表現することで、彼の内核で醸成する年である。『美しい星』を連載する1962年には、長男が生まれるなど、プライベートの面でも充実する。結論として、『美しい星』は彼の順風満帆な時期に執筆された作品である。

 

 次に『美しい星』のあらすじを紹介しよう。埼玉県飯能市に住む財産家の大杉一家がある。父の重一郎は火星、母の伊余子は、息子の一雄は水星、その妹は暁子の金星を故郷だという意識が目覚める。宇宙人だと知った彼らは、核戦争による世界滅亡の危機を回避するために、活動を開始する。「宇宙友朋(UFO)会」の設立。ソ連のフルシチョフ共産党第一書記長に手紙の送付。彼らは彼らにとっての異星人の地球人のために奔走する。

 そして、仙台の大学で助教授をしている羽黒という大学教授もUFOを見て、自分は白鳥座61番星の住人だと知る。羽黒の共をしていた曽根と栗田も自らを宇宙人だと知る。しかし、彼らは平和のためには活動しない。むしろ、地球人を激しく憎み、滅亡を望んでいる。この地球の存亡を巡り、宇宙人たちは激しい論争を始める。

 

 大まかなあらすじはこうである。では、このストーリ―のSF性について考えてみる。

 

 『美しい星』では完全なる宇宙人、宇宙から飛来する宇宙人は現われない。あくまで地球人だった人間が、自分は宇宙人だと意識する。そこには科学的な論理は現われない。SFらしさはあまり感じられない。そして彼ら実際に論争を行う。しかし、そこからの展開はない。地球は核戦争の危機に瀕したまま、日常は流れてゆく。つまり、現代の科学技術を凌駕する技術が現われ、物語は大きく変わってゆくSFの王道ストーリーを『美しい星』は取らない。宇宙人らしい文化もなければ、宇宙人らしい能力を発揮しない小説は、全くの異色SF小説であると言える。

 また、『美しい星』にはSF(科学的空想)の科学性を持たない。もちろん、三島は科学者ではない、理系出身でもない。東京大学の法学部出身である。その純文学者の三島由紀夫が宇宙人の登場する小説を書いたのだ。これには、何か特別な理由があると私は考えた。

 まず、この小説のストーリーの特質としては、アイデンティティが宇宙人であるということである。この大杉一家の人々はが宇宙人だと自覚する。この形而上的といえるこの展開は、私には何とも三島由紀夫らしさを感じ得ない。

 三島由紀夫の初の書き下ろし長編小説『仮面の告白』。この作品は三島由紀夫が23歳の時に書かれたものである。『仮面の告白』は三島由紀夫の自伝的小説として、彼の性意識や肉体への憧れが書かれており、彼の人生を分析する上で欠かせない作品だ。そして、この『仮面の告白』の書き出しはこのようなものである。

 

永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。

 

 このように三島由紀夫は、自分の意識を切り離して考えている節がある。もう一つ、このように、彼の心身二元論的な意識への考え方がわかる小説がある。それは、彼の最期の作品にして長編4部作『豊饒の海』である。あらすじとしては、青年の魂が遠くさまざまな時代をさまよう話だ。このあらすじからも分かるように、彼は二元論的に魂や意識と肉体の存在を捉えていた。『美しい星』の一家の魂の宇宙人への目覚めは、彼の人間観が根底をなしていると考えることができる。何よりも、彼がボディビルなどに取り組み、その肉体美を究めようとしたのは、ギリシャの思想の影響がある。ギリシャの二元論的な哲学も彼に影響を与えていると考えられる。

 

 どうして、三島由紀夫はUFOと宇宙人という題材で小説を書いたのだろうか。純文学の巨人は何故、SF小説を書いたのか。その動機を探りたい。

 『社会料理三島亭』というエッセイがある。ここでは三島由紀夫がUFOを発見したという衝撃的な報告がある。この発見は瑶子夫人と馬込の自宅の屋上で空飛ぶ円盤を見というものだ。

 

 「円盤にも葉巻型というのがあるのを知っていたから、それだな、と思った。」

 

 このように三島由紀夫がUFOを発見したのには、経緯がある。このUFOの発見は発見しようとして発見したものなのだ。つまり、彼はUFOに興味を持っていて、UFOを見たかったのである。

 昭和30年、東京に「空飛ぶ円盤研究会」という在野のUFO研究会が結成される。会では機関紙を発行して、アメリカ発祥のUFOについての研究の成果を発表していた。そこに、一人の男から電話がかかる。電話の男は「ミシマユキオ」と名乗り、後に発送された申込書には、「文士 三島由紀夫」と署名された。1000人近い会員の中で、三島の会員番号は12であったため、かなり初期からのメンバーであると分かる。この「空飛ぶ円盤研究会」で、三島は何度もUFO観測に出掛けているが、観測には失敗している。失敗を踏まえ、三島はこう述べている。

 

 「『空飛ぶ円盤』は、一個の芸術的観念に違いないと信じるようになったのである。」

『空飛ぶ円盤の観測に失敗して』より

 

 そして、三島由紀夫と江戸川乱歩の推理小説雑誌『宝石』での対談においても、UFOの話題が出ている。江戸川乱歩は、UFOの存在が科学的実証されない限り信じないと、発言。それに対し、三島由紀夫は信じると強く断言した。

 

 この二つの事例から三島はUFOを観念的なものとして扱っていながらも、その存在を強く信じていたのである。『美しい星』の執筆には、このような背景があるのである。

 

 そして、この『美しい星』の最大の見せ場とも言えるのが、重一郎と羽黒たちの対談だ。このシーンは人類を滅ぶべき存在か、存続させるべき存在かを激しく討論する。双方の美しいまでの論理構成に三島由紀夫の彼の法学部で培われたであろう論理的思考力と類稀なる文学的才能が詰め込まれている。羽黒の語る人間の3つの関心(ゾルゲ)、重一郎の人間世界における平和の観念。このシーンはセリフとしての文章が長く、長いからこそ論理の一貫性や三島の世界観を味わえるように感じられる。しかし、このセリフの長さが現実味を持たせない。どうしても彼が勢いで書いたようにも感じられてしまう。そのため、『美しい星』は「文学的失敗」などと評価が分かれしまう原因でもある。そこには、日本の文壇のリアリズムに対する陶酔と自己拘束があると言える。日本文学の更なる進化は、リアリズムの脱却とそれに対する正当な評価する態度の体得が必要である。

 この両者の対談はやはり三島由紀夫の内的世界の現われだと考えられる。私が感じたのは、三島がここまで、人間は滅びるべきだとする羽黒の論理を組み立てるのに、羽黒と同じくらい人間に対して、ネガティブな視点を持ち合わせていたのだ。これには、戦争で死ねなかった自己への嫌悪、魂を忘れて経済活動にうつつを抜かす日本や世界への疑問や嫌悪、大正教養主義やアカデミズムへの嫌悪、そして、嫌悪という感情を抱く人間の醜さへの嫌悪…。これらの嫌悪が羽黒とその周りを囲む二人である。この嫌悪が組み立てた精巧な論理が、この小説を「異色の政治批評小説」を言わしむるのだ。

 こう述べると、暗い青春時代を送った彼は人間が嫌いのように思える。しかし、三島由紀夫の真骨頂はここではない。その証拠は彼の文学、唯美主義的な文学である。この小説では羽黒と曽根と栗田は、外見についても醜い存在であるとして書かれる。それに対して、大杉一家は温かみがあり、一雄と暁子の外見は非常に美しく、若い日々を疾走しているように読める。ここに、三島由紀夫は大杉一家を肯定していることが分かる。羽黒があれだけの論理を述べても、それを言い返す重一郎には三島のポジティブな思考が感じられる。

 

 すでに述べたとおり、この時期の三島由紀夫は積極的に大衆文化に交わった。そして、その文化の牽引者でもあった。その彼は世界にも目を向けていたのみではなく、宇宙という新たに広がる人類のステージを視野に入れていた。その証拠であるのが、『美しい星』である。彼の旺盛な宇宙への関心は、UFOなどといった、SFに近いオカルトに満ちていた。文学では天才以外の何物でもない彼が、宇宙の専門的な知識がない中で、宇宙に魅了された。そんな彼の真剣で天真爛漫な少年のような眼差しを、彼が亡くなり50年近く経つ今でも、想像しただけでも親しみを感じる。まさに「永遠の若者」と例えられるのに相応しい彼の一面と言える。

そして、私たちにとって『美しい星』とは何なのだろうか。それは、三島由紀夫の遥か遠くから見つめている客観性ではないか。大杉一家のような、国家や民族、人種を越えた地球規模の考え方である。それは近年、グローバリズムという残酷な言葉が資本主義の欺瞞によって、煌びやかな包み紙に包まれ、広く伝播している。それは知識人のみならず、どの人間も口走る言葉となった。しかし、グローバリズムとは広く外を向いている態度を表わしてると考えられている。少なくとも、どこか理想主義的な高邁なフリをしている学生はそう考えている。

しかし、その内実は本当にそうだろうか。経済活動にうつつを抜かした現代の日本人は、グローバリズムを本当に外向的な言葉と捉えているのか。個人的に私は就職活動を控えている。その準備段階として、あらゆる企業や日本の経済状況について知ろうとしている。その中に現われるグローバリズムという言葉は少子化とともに、ビジネスチャンスもしくは市場の逃げ場として語られる。そして、そこいらの学生の唱えるグローバリズムはそんな社会に適合するための言葉なのだ。さらに、そのグローバリズムは多文化主義のもと、なぜか世界共通語の英語を身に付けることを強制させる。実にグローバリズムとは、その場しのぎの言葉なのである。

そんなグローバリズムの対極にあるのが、三島由紀夫の『美しい星』の大杉一家の思想である。ここではその思想を友朋主義と呼ぶこととする。友朋主義は生半可なグローバリズムと異なり、平和に特化した、より多様で、穏やかな思想である。『美しい星』が私たちに与えようとしているのは、友朋主義という思想や視座ではないのだろうか。

 最後に重一郎が言った、滅亡した人類の墓碑に刻みたい言葉を紹介したい。

「地球なる一惑星に住める人間なる一種族ここに眠る。

彼らは嘘をつきっぱなしについた。

彼らは吉凶につけて花を飾った。

彼らはよく小鳥を飼った。

彼らは約束の時間にしばしば遅れた。

そして、彼らはよく笑った。

 ねがわくはとこしえなる眠りの安らかならんことを」

 

 

【参考文献】

三島由紀夫 『美しい星』 1967年  新潮社

三島由紀夫 『仮面の告白』 1950年 新潮社

 

「オカルティスト 三島由紀夫<1>憂国の作家が追い求めたUFO」

http://gakkenmu.jp/column/9202/ 閲覧日 2016年12月20日

【おまけ】

映画『美しい星』公式サイト

http://gaga.ne.jp/hoshi/

画像提供:https://goo.gl/YmNT0I

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